家紋について


家系図を作るときも、どこかに家紋をあしらうのが一般的となっていて、当事務所が家系図を作る際にもお客様の家紋を家系図に入れて制作します。そのため、家系図を作る上でも、自分の家紋を把握しておきたいものです。自分のルーツを辿る上でも、家紋は重要な情報の一つになります。

 

しかし、最近では核家族化が進み「家」や「家紋」を意識する機会は減ってきていますが、今でもお墓等にはきっと我が家の家紋が掘られていることが多いのではないでしょうか。

 

それでは、いつの間にかある自分の家の家紋はいつの時代から、どのような経緯で生まれたのか、由来をご存知でしょうか。自分の家の家紋にも由来があり、長い歴史があります。大昔に生まれた公家・武家・庶民の家紋のルーツについてさかのぼり、その由来と歴史について考えてみましょう。

 

もし、我が家の家紋が分からないという方は、調べてみることをお勧めします。調べ方については、「7.自分の家紋の調べ方」「8.家紋は新しく作っても大丈夫!」を先にご参照ください。


1.そもそも家紋とは、いったい何?

戦前は旧民法の下、「家制度」でしたので、自家の家紋が入った紋付袴が日本の正装とされていたため、家紋付きの着物や羽織、小物など多く見られ、仏壇に家紋が付いているご家庭もあると思います。

しかし戦後、日本で西洋化が進んだ結果、家紋に深い意味を見いだすことなく、今では墓石に家紋が残るぐらいのものになっています。さらに昨今では永代供養をするなど、お墓を持たない方も珍しくなく、自分の家紋が入っているものを一切持たず、自分の家紋が分からない方も少なからずいらっしゃいます。

 

家紋とは先祖から代々伝えられてきた家を表す紋章で、言わばロゴマークのように大切な意味合いを持っていました。しかしながら、同じ名字の方が皆同じ家紋というわけではなく、同じ名字でも出身地や家系・家業などによって様々な種類の家紋が伝わっており、名字は違っていても同じ家紋が伝わっている家も多く存在しています。従って、家紋は名字と合わせて自分の家系やルーツを表すいシンボルでもある訳です。


2.家紋の由来とその歴史

 古くから伝わる家紋。その種類は6千種類あり、さらに細かい紋様の違いまで区別すると2万種類もあるといわれています。では家紋はいつどのように発生したのでしょうか。家紋の由来・ルーツを深く探るためには、家紋が生まれる前の文化から目を向けていく必要があります。

2.1.日本に古代から存在する「文様」

日本に家紋文化が生まれるずっと前から、文様(もんよう)は長く使われていました。例えば、縄文時代の「土器」。縄文土器や弥生土器に見られる文様・造形は多種多様で、考古学者の間ではそれぞれの文様に意味があったと考えています。つまり日本では、言葉の起源より前から「文様文化」がありました。

 

大化の改新後、律令国家が成立した奈良・平安時代になると、朝廷に仕える貴族(公家)達が、自分好みの「文様」を装飾としてあしらった衣服や家具等を使うようになり、家紋が生まれる一つのきっかけになったと考えられます。

2.2.公家の家紋の由来

公家の家紋のルーツについては3つの説があるといわれています。もちろん、当時の公家は1つではありません。それぞれの公家ごとに様々な経緯・由来で「文様」が家紋として成立したと考えた方が自然です。

 一、牛車の車紋が由来とする説

 1つ目は牛車に使われていた文様が転じて家紋になったという説で、家紋の由来についてはこの説が最も一般的です。

  公家たちにとって、牛車はステータスである一方、自分の車を識別するための目印も必要でした。そこで自分の牛車に自分好みの「紋様」を目印とし、さらに優美なデザインで周囲に権威を誇示することも意識していたのです。例えば、西園寺家が牛車に鞆絵()を、徳大寺家が木瓜を、近衛家が牡丹を使っていたとされていますが、後にいずれもその家の家紋とされています。

 二、衣服の文様を由来とする説

  2つ目は公家が着用していた衣服の文様です。久我家では好んで竜胆(りんどう・たすき)という文様を使ったとされていますが、後にこれを家紋としています。自分が好む紋様が、他が認める正式な家紋になった例といえます。

 三、その他の理由があるとする説

  最後は、何らかの特別な「理由」や「ゆかり」により家紋となったという説です。例えば菅原道真は「梅」をたいそう好んでいたとされていますが、菅原家の家紋が梅鉢紋であるのも、先祖を偲んでという「理由」がルーツとされたものです。

このように、公家の家紋には様々な由来があります。当時は、必要があって作ったものではなく、装飾の延長から自然発生的に生まれたものと考えられ、その発生の仕方も様々だということになります。ただ、共通していることは、その家になんらかのゆかりのある文様やモチーフを用いたデザインが後に正式な家紋になったということです。

2.3.家紋はいつから使われていた?

前述のとおり、家紋のルーツは平安時代の頃に公家(貴族)が自分達の衣服や持ち物に独自につけた「目印」が由来となっています。そして、次第にその目印が他の人々に「家紋」として認められるようになったということです。

そして、「家紋」はその一代限りではなく、その家を象徴する目印として自分の子孫達に受け継がれていくことになります。

2.4.武家の家紋の由来

テレビや映画で、戦国時代の武将が合戦で旗印や馬印を用いているのをご覧になったことがあると思います。有名な関ヶ原合戦屛風図にはたくさんの旗印が入り乱れて描かれております。すると、少なくとも関ヶ原の戦いが行われた1600年には武家も家紋を持っていたということになります。

 

武家の家紋はいつから?

武家の家紋が生まれた時期にも様々な説がありますが、一般的には鎌倉時代初期の源頼朝の時代には武家の家紋はまだありませんでした。

武家は戦うことが生業でしたので、家紋が広がる理由も「戦」にまつわる合理的な理由からでした。戦では敵と見方を区別する必要があるため、目印が必要でした。

 

合戦で敵味方を区別する目印は、源平合戦で源氏は白旗、平氏は紅()旗というように「旗の色」でした。これは運動会の紅白の色分けの起源とも云われています。しかし、それだけではどの武将がどこにいて、誰が武勲を立てているのかが分からず、旗や陣幕に「印」をつけるようになったのが始まりと云われています。

軍配団扇
軍配団扇

 一、旗指物を由来とするもの

  旗指物(はたさしもの)とは「のぼり旗」のことで、武士は戦のときは必ず目印として旗を持参していました。平安末期、武蔵国の兒玉党の軍配団扇が最も有名です。兒玉党が旗に団扇(うちわ)を描き団扇旗と称したことに始まり、多くの武将がそれに倣って目印を入れたとされます。さらに旗だけではなく兜や鎧の袖にも紋を描き、自分の存在を明らかにするものとして活用されました。後にこの旗印が家の象徴(シンボル)として家紋になったということなのです。

二引両
二引両

 二、陣幕を由来とするもの

 戦に使う旗だけではなく、陣幕に染め出す幕紋をルーツとする家紋も存在します。代表的なものは新田氏の大中黒や足利氏の二引両で、わかりやすいシンプルなデザインが特徴です。引両はもともと「引霊」という字だったのが、時代を経るにつれて変化したものだと云われています。かつて、神霊に対して武運長久を祈念するため、武家には旗に「八幡大菩薩」など神霊の号を記し、その下に黒い線を引くという習慣がありました。が、いつしか神号を記すことがなくなり、黒い線だけが残ることになったのです。こうした発祥であったため、引両は武家との関わりが深い紋章なのです。

三目結
三目結

 三、衣服の文様を由来とするもの

 衣服の文様を家紋としたものには佐々木氏の目結紋があります。佐々木氏の武具である鎧直垂(よろいひたたれ)には三目結が縫われていたと云われており、後にこれが家紋としても使われるようになったというものです。

 

 こうして戦の「目印」としてはじまった武家のシンボルとしての家紋は、功のあった家臣に下賜(かし)されるほどの価値あるものとして広く認められるようになっていきました。昔の武士が戦で使っていた家紋は、身分・所属を表すとともに軍の団結を象徴するものでした。

2.5.豊臣秀吉による家紋の規制

戦国時代が終わり、家紋が権威を持つ中、豊臣秀吉は天正19(1591)に菊桐紋禁止の規制を出すほどになります。鎌倉時代初期の後鳥羽天皇の時代から皇室の象徴であった「十六葉八重菊(菊紋)」はもちろんのこと、桐紋である「五七桐(桐紋)」は菊紋の替紋としてとても権威のある紋だったため、使用を制限したのです。

 

しかし、豊臣秀吉の時代が終わり、徳川幕府が統治する戦のない平和な江戸時代が到来すると、武家の家紋は戦での実用性が求められない権威の象徴となります。さらに江戸幕府のもとでは家紋の規制は緩いものとなり庶民・町民にも家紋が広がっていくことになりました。


3.家紋が最も栄えた江戸時代

天下をとった徳川家康は、当時の天皇である後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から権威ある「菊桐紋」を下賜(かし)されることを辞退しました。その結果、この頃から元々葵紋を使用していた大名家も徳川将軍に遠慮して葵紋を使用しなくなったといいます。

豊臣秀吉の時代に比べて、江戸時代初期の家紋に対する規制はとても緩やかなもので、苗字の公称は厳しく規制した一方で、家紋をはじめとする葵紋の使用には明確な規制を敷いていませんでした。しかし、その後年月が経つと、町人が葵紋を用いた売物を勝手に作ったり、葵の紋服を着用して悪さをする浪人が現れたりしたため、享保年間(1716-1735)に厳しい葵紋使用禁止令が出されることになりました。葵紋を独占することで、相対的に葵の権威が高まっていきました。

 

葵紋は徳川家の権威の象徴へ

規制により庶民は葵紋を使うことができなくなり、江戸時代の将軍家徳川葵をはじめとする葵紋は、皇室の菊紋・桐紋をはるかに凌ぐ権威を持つようになりました。

江戸時代の家紋はまさに“武家の権威の象徴”となります。将軍である徳川家だけでなく、地方の大名にとっても家紋は格式を表すシンボルとなって、羽織からご老公様の印籠といった調度品・衣服にまで家紋が印されるようになっていきました。

 

大名行列でも家紋は重要な役割

江戸時代に盛んに行われた参勤交代が行われる場面では、一行の衣服や籠等には家紋があしらわれ、家紋から一目で誰なのか見分けられるようにしていたのです。また、家格により礼儀作法が異なったようで、参勤交代の途中の道で遭遇した場合に失礼な対応をしないよう、予め家紋を知っておく必要がありました。その家臣や行列の先頭には必ずといっていいほど諸大名の家紋を熟知したものが配置されていたと云われています。

 

家紋から誰かを識別する下座見役

さらに、幕府においても大手門に下座見役(げざみやく)という役人をおいて、家紋を見ただけでどの大名・役人が登城してきたのかを確認できるようにしていました。当時の役人にとって、諸大名の家紋に精通していることは公務上絶対必要なスキルでした。

また、都市部の町人にとっても、武士の格式を瞬時に見極めて、それなりの対応をしなければ大変なことになります。そのために諸大名の家紋をまとめた大名紋盡(だいみょうもんづくし)という書物をはじめ、「武鑑」という大名や幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを記した年鑑形式の本が年毎に発行され、明治に至るまで刊行されていました。

 

江戸時代は現代と異なり、全ての人が文字を読めるわけではありませんでした。そのため、名刺代わりに家紋が用いる方が全ての庶民が識別できて、権威の象徴として示すには合理的なものだったのです。


4.庶民への家紋の広がり

江戸幕府は「苗字帯刀」に代表される身分制度は厳格にした一方、家紋の使用には寛容でした。その影響もあって、庶民にとっては江戸時代が家紋の最盛期となります。将軍や大名の家紋に手を出さない限り、伝統的な紋を使っても咎められなかったため、庶民もこぞって家紋を持ち始めました。「苗字」が厳格に身分を表象するものとされたのとは対照的といえます。

 

公家・武家ではない庶民(農工商)の中でも、家紋は商人や職人にとっても家紋は重要なものになっていきます。町人なども羽織や袴を身につける者が多くなり、武士や公家を真似て家紋を付けるようになりました。どんな家紋を付けるのも自由なので、「紋上絵師(もんうわえし)」と呼ばれる家紋専門の職人が現れて繫盛したといわれています。

4.1.職人の家紋(印・銘)

士農工商の「工」にあたる職人にとって「印・銘」は製品のブランド、品質と責任を示す上でとても重要なものでした。武家に紋が使われるようになってから、特に優秀な工芸品については将軍や幕府から印を与えられることがあり、その印が刻印された工芸品は優れたものとして誰もが認めるものとなっていきます。職人はその印や紋を誇りにし、自家の家紋にも使うようになっていきます。江戸時代以前から続く老舗には現代まで引き継がれている印も存在しているほどです。

4.2.商家の家紋

今も昔も、商人にとって大切なものは「屋号」です。商家はブランドとなる屋号を持ち、屋号を紋にして暖簾(のれん)に染め出しました。そして、その紋がその商家の家紋へとなっていきます。

商家のブランドの象徴である紋は、そのまま現代の企業ロゴに用いられているケースも少なくありません。現代の大企業である住友グループ(菱井桁)や島津製作所(丸に十の字)が有名です。商家のロゴマークである屋号と紋は、長い間歴史を受け継いでいく大切なシンボルであり続けているのです。

4.3.農民の家紋

江戸時代に家紋が全盛期をむかえる中では、商人や職人ではない農民の間でも家紋が広がっていきました。特に比較的大きな農家である豪農等は自家のアイデンティティを示すものとして家紋を使用していた記録が残っています。農民の家紋は職人・商人に比べて目的が希薄だったため、装飾の意味合いが強かったといわれています。

 

家紋のデザインにも流行があった

江戸時代も五代将軍綱吉の元禄年間(16881704)になると、政治・経済が安定し始めます。それによって町人の暮らしぶりもよくなり、町人文化や上方文化が開花しました。歌舞伎や浄瑠璃、狂言などの伝統芸能が盛んになり、役者や花街の芸者衆が競うようにオリジナルの家紋を付けます。それが浮世絵などで拡散すると、瞬く間に町人の間で大流行したそうです。

武家の家紋にしても、いわゆる「伊達紋」と言われる花鳥、山水、文字などを図案化して作った紋や、「加賀紋」と言われる彩色した紋で草花などを図案風に描いた、派手な紋が使われ始めたのもこの頃で、遊女や芸姑も紋を持っていたといわれています。江戸時代で家紋はもはや、名字の目印といった性質や威厳を象徴する意味合いは薄れ、装飾用として意味合いが強くなっていったのです。

 

庶民の家でも家紋が受け継がれていく

最初はファッション感覚で好きな役者や、武家の家紋をアレンジして使用していた庶民は、やがて武家に倣って「家の紋」として次の世代に受け継ぐようになっていきます。識字率が現代ほど高くなかった江戸時代にあっては、自分のアイデンティティを視覚的に確認できる家紋の存在は、苗字が公称できない庶民にとって今以上に貴重なものだったはずです。


5.明治時代に名字・家紋は一般化

徳川慶喜の大政奉還により、明治維新とともに王政復古がなされると、封建制が解かれ、全ての庶民が名字を定めて名乗ることとなり、「家」に対する一体感がより一層強くなりました。初めて本格的な戸籍が編製されたのも明治5年のこと。まだ家紋を決めていなかった者も、名字とセットのように家紋を決め、礼装や墓石などに印すようになり、ほとんどの国民が自家の家紋を持つようになりました。

 

一方、明治新政府は皇室の象徴である「菊花紋」の使用を禁じる太政官布告を何度も出したことで、江戸時代に落ちてしまった菊紋の権威が徐々に復活していきました。明治初期には「菊は栄える、葵は枯れる」という流行歌があったことからも、当時は徳川の葵紋の権威が落ち、皇室の菊紋が復活を遂げた様子がうかがえます。

 

戦後にいたっては「菊花紋章」の使用を禁じる法律は存在しませんが、今でも菊紋が皇室の事実上の紋章とされ、宮家ごとに優美な菊紋が描かれています。さらに「十六葉八重菊」は慣例として日本の国章に準じた扱いを受けています。かつて皇室の副紋だった桐紋も「五七の桐紋」は日本政府の紋章として、より一般的な「五三の桐紋」は法務省で使われていることから、家紋は日本文化のシンボルとしてまだ生き続けていることになります。


6.家紋から見えてくる自家のルーツ

歴史を振り返りながらこうして見てみると、家紋は時代を映す鏡ともいえるのではないでしょうか。家系図作りやルーツ探しについても、古くから伝わる家紋に着目することで自分の家系が江戸時代へとつながる糸口が見えてくる可能性もあります。家紋の紋様をじっくり調べると、暮らしていた場所の大名や領主との共通点や、江戸時代の先祖の職業が分かるかもしれません。どの家の家紋にも由来があり、歴史があります。どこかロマンを秘めた家紋の由来、是非探ってみて下さい。

 

また名字と異なり、家紋は国の制度で管理されないため、自分が家紋を知らないとその先の子孫に引き継がれず、途切れてしまうことになりますので、分からない方は是非調べてみて下さい。


7.自分の家紋の調べ方

7.1.家族・親戚に聞いてみる

まずは、最も手軽な方法で、両親や親戚に家紋を尋ねてみてください。ご両親や親戚がまだご健在の場合は、この方法で50%以上の確率で自分の家紋が判明します。しかし、これでは家紋の正確な紋様まで分からないことがあります。

7.2.お墓を調べる

次に、お墓を確認してみるべきです。お墓が近くにある場合は、お墓参りのついでに家紋を確認してみてください。「家」を意識した考え方が時代とともに薄れていく中で、現代では「先祖代々のお墓」が「家」を象徴するものとして残っているからです。お墓が遠方の場合や既に墓じまいをしている場合は、昔の記念写真の中にお墓が写り込んでいないかも確認しておきましょう。

 

実際に、お墓を見に行き家紋が確認できた場合は、必ず写真を撮っておきます。家紋は微妙な紋様の違いがあるので、画像で残しておくのが一番確実な方法なのです。自分の家紋が分かったら、その家紋の名前も調べておきます。家紋は2万種類ほどあると云われていますが、よほど珍しい家紋でない限りインターネットで同じ家紋を見つけることができるはずです。家紋には「丸に片喰」「違い鷹の羽」等の紋様を表す名前がついていることが一般的で、その名前まで知っておくと、家紋を誰かに伝えるときに役立ちます。

 

自分の家紋を調べる場合、①家族に聞く方法、②お墓を確認する方法、どちらかの方法で判明する場合がほとんどです。

7.3.仏壇・位牌・神棚を見てみる

最近の小さくモダンな仏壇には家紋が入らないことが多いですが、大きい仏壇には上部や下部の中心部に家紋があしらわれていることがあります。さらに、香典を包む袱紗(ふくさ)や位牌の上部にも家紋が刻印されていることがあるので、家に仏壇がある場合は確認してみましょう。戒名から宗派がわかることもあるので、ルーツ探し、菩提寺探しに有益な情報が得られる可能性もあります。もし神棚が家にある場合は、神棚に家紋が入っていないかも確認しておきましょう。

7.4.家の紋付き袴を確認する

近頃はあまり見かけなくなったものの、男性の場合は成人式や結婚式等で紋付き袴を着た経験のある方はいらっしゃると思います。紋付き袴は江戸時代には武家の正装とされていて、庶民にまでは広がっていませんでしたが、明治時代になると広く庶民にも着られるようになっていった経緯があります。家のタンスの中に紋付き袴がしまってある場合は確認してみると自分の家紋が分かるかもしれません。

また、昔のアルバム・記念写真に写った人物の中に家紋が入った袴を着用している人がいないかも確認しておきましょう。

7.5.本家に聞いてみる

これまで紹介した方法でも自分の家紋がわからない場合は、本家に聞いてみるという方法があります。戦前の家制度の名残は徐々に薄れていっているため、最近では本家と分家がハッキリわからない方も増えてきていますが、本家の場所や連絡先を知っている場合はまず連絡してみましょう。家紋はお墓にも刻印されているように比較的オープンなものなので、電話等で簡単に教えてもらえる可能性も高いといえます。ただ、自分の家紋が本家の家紋と同じである保証はないことを念頭に置いておきましょう。

7.6.高度な家紋の調べ方

これまでに紹介した方法を用いても自分の家紋がわからなかった場合は、少し手間と時間をかける必要が出てきます。次の要領で明治時代までの戸籍調査からスタートして、可能な限り家の歴史と先祖を遡ってみましょう。

 一、明治時代までの戸籍を取得(戸籍調査)

 可能な限り古い戸籍を取得し、自分の家が本家か分家かを判別します。戦前の戸籍には分家をした記録は残りますが、本家であるとの記載はありませんので、まずは、江戸末期・明治初期に元々どの家に属していたのかを判明させます。

 二、本家・同性宅の調査

 上の戸籍調査で判明した家と手紙等で連絡をとります。昔と住所表記が変わっていることが多いため、市区町村役場で最も古い本籍地が今の住所がどの場所にあたるのかを確認しておくと良いでしょう。最も古い本籍地が今は居住地でなくなっている場合は、付近の同姓宅への聞取りをするという方法もあります。

 三、同姓の墓石を見てみる

 最も古い本籍地近くのお寺の墓地等で、同姓の墓石から家紋を推測する方法もあります。

難しい・忙しい場合は専門業者へ

「そこまで調査できない!面倒だ!」と思う方は、私達のような専門業者の活用を検討してみて下さい。一般の方より効率よく調査できて、独自のデータベースや文献等を活用して独自の方法で家紋を推測・発見していくことも可能、さらに家紋以外の家族の歴史を明らかにできる場合があります。まず自分で調べてみて、もし行き詰まったら専門業者の存在を思い出してみて下さい。


8.家紋は新しく作っても大丈夫!

同様に、「調べるのはもう諦める!」と決めた方は、新しく自分の家の家紋を定めたり、家紋自体を作り直したりしても問題ありません。戸籍調査や高度な文献調査まで行ってから、自分の家にゆかりのありそうな家紋を定める方法もあります。上で紹介したとおり、家紋は登録制ではなく元々自由なものだからです。先祖代々の家紋でなくても、家ごとに紋章があっても問題ありません。

 

新しく定めたいと思う方は、当事務所にご相談ください

独自の方法で氏姓(うじかばね)、出身地などでデータベースや文献等を活用し、家紋を推測・発見し、いくつかの候補をご提案しますので、その中からお選びいただくことができます。

 

家長(昔風に云えば戸主)のあなたが「これが我が家の家紋」だと宣言すれば、その家紋はあなたで始まり、あなたの家系に受け継がれていくのです。

 

これまで家紋の調べ方について解説させていただきましたが、いかがだったでしょうか。どんな家紋にも由来があり、子孫に引き継いでいく意味がありますので、これを機会に日本の伝統である家紋の大切さや有難みも見直してみて下さい。